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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)3319号 判決

原告 鈴木栄司

右訴訟代理人弁護士 渡部照子

被告 中西喜代博

右訴訟代理人弁護士 堀博一

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金七〇万円およびこれに対する昭和五五年四月一一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  被告は、宅地建物取引業を営む者であるが、昭和五四年四月九日東京地方裁判所八王子支部に原告を相手どり、仲介手数料請求事件(昭和五四年(ワ)第三八五号)を提起し、その請求の原因は、被告が原告の依頼で原告所有の土地、建物(以下、本件不動産という)を渋谷製氷株式会社に売渡す仲介業務を行ない、その手数料として原告に対し金一二七万五〇〇〇円の報酬請求権を取得した、というものであった。

2  しかし、原告は、昭和五三年七月三一日成立した渋谷製氷との本件不動産売買の仲介を被告に対し依頼したことはなく、また客観的にも右売買成立につき被告の原告に対する仲介行為なるものは存在せず、したがって、被告の請求に応ずる理由は全くなかったから、同年一一月一日被告から右請求内容の催告書を受領したので、直ちに東京都住宅局へ相談に赴いたところ、その二日後、同局より電話で被告が右請求を取下げた旨の回答を得て安心していたが、その約六か月後になって突然訴状が送られてきたものである。

3  八王子支部は、審理のすえ昭和五四年一〇月三一日被告の前記請求を棄却する判決を言渡し、確定した。

その確定事実によれば、被告は渋谷製氷に依頼され売買に立会い、かつ同社から正規の仲介手数料の支払を受けたが、原告は被告に対してはもちろんいかなる不動産業者にも右売買の仲介を依頼していなかった、というものである。

4  要するに、被告は、原告に対する報酬請求権のないことを知りながら原告に損害を加える目的で前記訴を提起し、そうでないとしても、自己に右権利のないことを容易に知りうる事情にあるのに軽卒、不十分な調査のまま漫然と前記訴を提起した過失により、原告に対し応訴の精神的、経済的損害を及ぼした。

右を慰藉するには金六〇万円が相当であり、また本訴提起につき金一〇万円の弁護士費用の負担を余儀なくされ、同損害を被った。

5  そこで原告は、被告に対し金七〇万円とこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和五五年四月一一日から完済に至るまでの民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する答弁

1  請求の原因1は認める。

2  同2のうち、被告が直接原告から昭和五三年七月三一日渋谷製氷との間で成立した売買の仲介の依頼を受けていなかったこと、被告が原告に対しその主張の内容の催告書を送付した(到達日時は原告主張の日時)ことおよび訴を提起したことは認めるが、原告が東京都住宅局に相談に行ったことや同局の回答の内容などは知らないし、その余は否認する。

確かに被告は原告から直接仲介の依頼を受けてはいなかったが、後述のとおり、結果的には被告の仲介を縁由とし、または被告が直接契約の成立に参与したことにより原告と渋谷製氷との間に本件不動産の売買が成立したのである。

3  同3は認める。

4  同4は否認する。

被告は、原告が本件不動産を売りに出していることを知って、買手の渋谷製氷を原告に紹介した。その後、原告側の仲介業者ナカノ・ケンと本件不動産売買について情報を交換しながら話を詰め、昭和五三年七月中旬ナカノと共に原告と会ったところ、原告は従来の売値金三九〇〇万円を金四〇五〇万円にするといい、仲介手数料の件でナカノと口論したため、ナカノは仲介をやめ、そして渋谷製氷も右値段では高いから買わぬということで、結局右売買は中止となった。

その後暫くして、被告は、渋谷製氷より原告が是非本件不動産を買って欲しいというので買取ることにしたから契約に立会ってくれと依頼され、かくして同年七月三一日東京相互銀行代々木支店において、原告と買主に会い、売買条件につき双方の意見を聞き公平な立場でその条件を決め、被告の持参した契約書に条件を記入、当事者および被告が各記名捺印し、ここに契約は成立し、手附金、内金の受渡しも完了した。その際、被告は、原告の要請で領収証書に貼付する印紙代を貸渡している。その直後に、原告が契約書上の原告の仲介手数料の支払条項を抹消したものである。

右の事情の下では、不動産仲介業者としては、商法第五一二条の規定により当事者双方に対し相当額の報酬を請求できると考えるのが当然である。被告には原告の権利を不当に侵害する意思はもちろん、過失もなかった。

5  同5は争う。

第三証拠《省略》

理由

一  請求の原因1および3の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

しかしながら、私人間に権利または法律関係をめぐって紛争があるとき、民事訴訟制度を利用し裁判所の公権的な判断を求めることは、広く国民に認められる当然の権利行使であるから、単に敗訴したとの一事によって、その訴提起が不法行為に当ると速断できないことは明らかである。ただ例外として、訴の理由のないことを知りながら、例えばもっぱら相手方に損害を加える目的で、あるいは自己に不当な利益を得ようと図って訴を提起したり、訴の理由のないことを容易に知りうるのに著しい不注意でそれを認識せずにあえて訴を提起する等、その目的、態様、その他諸般の事情にかんがみ、その訴の提起自体が公序良俗に反するなど顕著に違法性を帯びるような場合にのみ、民法第七〇九条の不法行為に該当すると解すべきである。

二  右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次のような事実が認められる。

1  原告は、かつて住宅購入資金の融資の申込みをした際に知り合った日本住宅金融株式会社の部長に対し、本件不動産を高く売れるなら売却したい旨述べていたところ、昭和五三年六月下旬か七月初め頃、同部長から本件不動産を買いたいという人がいるから来ないかとの電話連絡で同社に赴き、ここで初めて渋谷製氷の代表者大野秀男に紹介された。

他方、宅地建物取引業を営む被告は、渋谷製氷からその製氷材料の置場に適した場所の買受の仲介を依頼されていたところ、同業者から本件不動産が売りに出ている旨聞き知り、右同日大野と共に右会社に赴き、原告と会ったものである。

この時は、双方の希望する代金額が折り合わずに別れた(渋谷製氷は金三九〇〇万円以下、原告は金四〇〇〇万円以上を希望)。

そしてその数日後、被告は右同業者と共に原告宅に行き話し合ったが、原告は、手取額で金四〇五〇万円でなければ売らない旨申し向け、そのため渋谷製氷は本件不動産の購入をあきらめ、双方の話し合いは中断するところとなった。

ところが間もなくして、被告は、渋谷製氷が本件不動産を買受けることになったので契約の際立会うよう大野から連絡要請されたため、同年七月三一日指示された東京相互銀行代々木支店に赴き、同所で原告と大野との双方から話を聞き、持参した契約書に双方の合意事項、その他所定の事項を記載し、そして原告および渋谷製氷がそれぞれ署名・記名のうえ押印して、ここに原告と渋谷製氷との間に代金四〇五〇万円とする本件不動産の売買契約が成立するに至り(前掲甲第三号証)、同時に手附金、中間金が原告に支払われたが、原告が当時領収書に貼付する約金一二〇〇円の印紙を所持していなかったので、これを被告より借用して貼付した。

2  その後、被告は、渋谷製氷より仲介手数料として約金一三〇万円の支払を受けた。

他方、原告は、被告に対し直接本件不動産の仲介を依頼したことはないし(この点は当事者間に争いがない)、また被告に対し手数料を支払うなどということを一切述べていなかった。

そして、前記契約書中の、売主、買主とも本件契約締結と同時に仲介人に規定の手数料を支払う、という趣旨の不動文字で印刷された条項(第一〇条)の「売主」の部分が削除され、原告と渋谷製氷の各訂正印が押捺されている(こうなった経緯については後記のとおり原、被告の言分が異なっている)。

3  かくして被告は、原告に対する仲介手数料の取立を弁護士堀博一に委任し、同弁護士は、同年一〇月三一日付書面で原告に対し、建設省告示第一五五二号所定の手数料金一二七万五〇〇〇円を同書面到達後一週間以内に支払うよう催告し、同書面が同年一一月一日被告に到達した(同書面が被告に右同日到達した点は当事者間に争いがない。)。

そこで原告は、同年一一月一五日東京都住宅局指導部指導課(不動産取引の契約前後の各種相談、業者の指導等を所掌する)に赴き、同課の吉岡茂に、原告としては手数料を支払わなくてもよいというので契約をしたが、業者から請求がきたので、いかがなものかと相談した。吉岡は、原告の持参した前記契約書の写と原告の説明を聞き、その説明どおりならば、業者の請求を拒否してよいであろうと返答するとともに、都が行なっているデパートでの不動産相談所には弁護士がいるので、そこで相談するよう勧め、それ故、原告は同所の弁護士とも相談し同じ返答を得ていた。

ところで被告は、原告から前記催告に対する直接の返答が何らなかったため、同じく弁護士の堀博一に委任して昭和五四年四月九日八王子支部に前記の訴を提起した。

4  原告は、弁護士を依頼せずに応訴し、被告に対しては本件不動産の仲介を委託したことはなく、また契約の際に渋谷製氷と被告の面前で、契約書中の仲介手数料支払条項から売主に関する部分を削除して契約をした旨答弁した。

八王子支部は、書証三通(うち二通は、本件の甲第三号と同第七号証)と原、被告の各本人を調べた(なお、右削除の点については、被告は、右本人尋問の際にも、原告と渋谷製氷が契約書に各署名・記名・押印した後に、被告の承諾も得ずに勝手に削除した、という趣旨の供述をしている)後結審し、同年一〇月三一日、原告が被告に仲介を依頼したことはなく、したがって、その仲介依頼を受けたことを前提とする被告の請求は、その余の点を判断するまでもなく(したがって、右削除に関する原、被告双方の言分の相違の点についても積極的な認定はせずに)失当であるとして棄却したが、被告は控訴しなかったので、右判決は確定した。

以上のような事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

なお原告は、前記のとおり東京都住宅局の吉岡と相談した二日後に、同局から電話で被告が請求を取下げたとの回答を得た旨主張し、そして確かに前掲甲第二号証および同第八号証(前者は原告が八王子支部に提出陳述した答弁書であり、後者は原告のメモ)には右主張にそう記載があり、原告本人も同旨の供述をしている。しかしながら、証人吉岡は、原告に対しそのような内容の電話をしたか否か記憶がないと証言し、他方被告本人は、東京都住宅局の者に原告に対する請求を取下げるなどとは述べたことはないと供述しており、そして前記の認定のとおり、右時点ではすでに被告は堀弁護士に取立を委任していたことも考慮に加えると、原告と東京都住宅局との電話連絡の内容の当否は別として、少なくとも被告が住宅局に対し原告に対する請求を取下げる旨確答したという事実自体は、他にこれを裏づける証拠がない以上、肯定することはできない。

三  ところで、宅地建物取引業者の仲介による報酬請求権は、もちろんある取引の成立に関与したことが当然の前提ではあるが、必ずしも明示的な委託契約関係にあった者に対してのみ発生するわけではなく、取引成立に至るまでの業者あるいは取引当事者の具体的な行為等のさまざまな事実に照らし、黙示的な委託関係の成立が認められたり、あるいは業者が委託関係のない者のためにする意思をもって仲介行為をしたものと認められるような場合においても、報酬請求権の発生する余地がありうる。

したがって、本件のように原、被告間に委託契約がなかったからといって、このことから直ちに被告が原告に対し報酬請求権のないことを知っていたとか、その不存在を容易に知りえたものと評価することはできない。そして、さきの認定事実にかんがみると、業者たる被告としては、むしろ原告に対し報酬請求権を有するものと考えたとしても、その額の多寡は別として、一応やむをえない事情にあったと解しうるであろう。

しかも、契約書中の仲介手数料条項の売主部分の削除については、その削除の際の事実関係につき原告と被告の言分は当初からくい違っていて、争いのあったところであり、そのいずれかによっては、被告の原告に対する報酬請求権の存否に重要な影響を及ぼすとの解釈も可能であったともいえる。例えば、仮に原告の言分どおりであったとすると、売買契約の際、原、被告間で、被告には原告に対する報酬請求権のないことを確認し合ったとか、被告においてその有する右請求権を放棄する旨約したとの法的効果が認められうるし、逆に被告の言分どおりであったなら、被告の報酬請求権の存在が肯定されうることもありえよう。それ故、この点においても、原、被告間の右権利の存否をめぐる争訟的価値はあながち否定できない。

そのうえ、被告が弁護士に委任して訴を提起したということも、被告の故意、過失を考えるに当って決して無視できないことである。弁護士は、委任された事件について、委任者たる者の一方的な言分や意図にとらわれずに、独自の専門的な法律的知識や経験をもとに訴提起の当否、見込み等を判断して、訴訟の追行に当るはずであるから、弁護士に委任して訴を提起した場合、特段の事情がない限り、訴訟物たる権利または法律関係の存否に関する依頼者本人の故意、過失は、一応否定的に推定するのが正しいと解せられる。

以上、要するに被告が前記訴を、その理由のないことを知りながら、あるいはその理由のないことを容易に知りえたのに著しい不注意でそれを知らずにあえて提起したものとは到底解することができない。

四  よって、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないことが明らかであるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 大澤巖)

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